『あの日から』(著 松山淳)

作家の松山淳氏にインタビューを受け作品化!
2005年まぐまぐメルマガにて配信されました!
瀧永聡の生きた道が一つの物語になっています。

【要約版】 

1995年1月17日、午前5時46分。

 野島断層が引き裂かれた。

「揺れがはじまる5秒くらい前かな、パッて目が覚めたんだよね。そうしたらもう、立てるとか立てないとかじゃないよ。仰向けになってこう手を広げてさ、床に手をついてはりついてるのが精一杯。逃げるなんてできない。頭のすぐそばでテレビがポンポン、ゴム毬みたいにはねてんだよ。」

 阪神淡路大震災。

 瀧永聡。この時26歳。兵庫県伊丹にある会社の独身寮で震災に遭遇した。伊丹はやや大阪よりではあるが、神戸と大阪のほぼ中間に位置する。

 激震。死者約6500人。避難人数30万人以上。倒壊または焼失した建物20万棟以上。被害総額10兆円規模。地震ではない、大地が割れたのだ。 

 「揺れがおさまってしばらくしてからかな、テレビつけたら神戸がうつってるわけよ。あわてて窓あけた。そしたら神戸の街が燃えてんのが見えたんだよ。そしたらどうなると思う。」

 即答できない私に瀧永の言葉がすぐに飛んでくる。

 「熱風が吹くんだよ、熱風。わかる?」

 語る彼から熱い風が吹いてくる。

 瀧永に会う2週間ほど前だろうか、私は震災の特集番組をテレビでみた。震災で父を亡くし、母を、弟を支え続けたひとりの高校生が主人公であった。被災の時は小学生で、それから一家の大黒柱として成長してきた。高校卒業後は海外に留学したいとの希望をもった。夢を叶えてあげたいが、離したくない母。迷う親心。その姿を見て、胸の内がわかるから葛藤する息子。そんな話であった。

 このことを私が口にすると、

 「そういった震災の悲しい話とか、いっぱい聞いているからね。語り出すと、こう涙がポロポロでちゃうんだよ」

 と、彼はうつむいた。

 そして顔を上げ、一つの話をした。

 「女の子がつぶれた家の前にたってるんだ。それで、その下には母親がいるんだよ。でも、助けだせない。重い木材かなんかの間にはさまってさ、大人が何人いても動かせないんだ。そうこうしているうちに、火の手がどんどん迫ってくるんだ。風にあおられ、火がくるんだよ。それでどうすんだよ、その子、そのままそこにいたら焼け死んじゃうよ。でも母親が生きてる。だから動けない。かといって逃げるか。母親見殺しにするか。どうする。これが現実におきたことだよ。」

 私は、何やら喉元に剣をつきつけられているような錯覚におちいった。そこで自分の愚かさに気づく。

 「テレビでちょっとかじった知識をひけらかして震災の何がわかるんだよ」

 と、瀧永は言わない。心を引き裂かれる女の子の話その全体をもってしてそう言ったのだ。。

 「言葉になんてできない」

 許された表現は、これしかないのかもしれない。その言葉に深く沈みこみ、想像力を屈指し、おぼれるような苦しみを感じ、それでも本当にわかることはできないと感じる。この時初めて理解への出発点にたつ。

 震災当日は、身のまわりのことで精一杯だった。その後数日、記憶がごちゃまぜになっている。翌日か、明後日だったか、いてもたってもいられなくなり歩き出す。電車は動かない。自動車なんて無用の長物。神戸の街めざし、伊丹からもくもくと歩をすすめた。

 「助けに行かなければ」

 宿る思いはそれだけであった。あまりにも簡潔。それだけに曇りがない。人間の根幹から出る強く激しい清心である。「無私の精神」とも言えるだろうか。

 瀧永は大手電機メーカーであるM菱電機のシステムエンジニアだった。震災直後にも出勤義務があった。事務所は大阪だったが、神戸にはM菱電機の基幹となる工場群があった。出社したところで仕事になるわけがない。人がただ居並ぶ。「こんな事態でも出勤する日本のサラリーマン」と海外のメディアは揶揄した。

 「上司にくってかかったよ。『こんなところで、座ってて何になるんですか。神戸を助けにいきましょうよ』ってね。でも、本部から指示待ちだって上司は動けないわけ。それで、机の書類を全部ひっくり返して怒鳴ったよ。『今、何かすることあるんですか、電話一つ鳴らないこの会社で、やること他にあるでしょ。』ってさ」

 その後、瀧永の意向が実現するかのように、他企業との混成による復旧チームが結成された。瀧永はその任を命じられる。陸上の交通網は混乱を続けているため、大阪から船で神戸に入った。震災後初めて工場を訪れる。

 唖然。

 「もう、工場の中は、メチャメチャだったね。いろんな大型機械が横倒しになっててね。ぐちゃぐちゃ。それを手作業で片付けていくんだけど、もしもう一度あのレベルの地震がきたら、屋根とか落ちてきて『死ぬかもしれない』って何度も思ったよ。ホントまじで恐かった。よく生きてるよ」

 工場へ足を運ぶ日々が続く。そして、ちょうどこの頃、あの光景に遭遇する。今の瀧永をかたちづくるに決して欠くことのできない彼を変えてしまった瞬間である。

 震災復旧チームの一員を命じられ、伊丹の寮から神戸へと住まいを移していた。そこは鉄筋であり震災に耐えた。水も出るし、お風呂にも入ることができた。食事もしっかり出た。

 ある日のこと、残業で遅くなり寮に帰える最後の人間となった。さあ夕御飯と思い食堂へ。

 「あっ、俺の食事が・・・」

と、のどまで言葉が駆け上がってくるが、ぐいっと飲み込む。見知らぬ家族が三人、お弁当をほおばっている。母らしき人が、子らしき人に食べ物を分け与えている。幼い子供たちは真剣な顔つきで、お米のかたまりを口に運んでいる。いや、むしゃぶりついているといった感じである。

 子はわかっている、本当はそうしてはいけないことを。もちろん親も。しかし、食べ物が無いのである。飢えに苦しむ子は見たくない。それが親心である。震災で家がつぶれ、行き場を失った人々が、難民のように街をさまよっていた。その頃、M菱電機の寮にいけば御飯があると噂になっていたそうである。

 すぐに察する瀧永。着ているものが薄汚れている。しばらくその光景を眺めていた。咎める気などおきてこない。あるものがないものへ与え、共に生きていかなければならない時であった。

 「お腹いっぱい食べて下さい」

と、心でつぶやき、自分の部屋に足を向けた。いつもなら早足で駆け上がる階段を、一歩一歩かみしめながらのぼった。胸に何やら温かいものが広がってくる。得体の知れない満足感。

 「何だろう。御飯少しのことで、どうして俺はこんなにうれしがっているんだ」

 とまどう瀧永。

 工場で汗を流し、これまでにない充足感をえてきたはずだった。それなのにそれにも増して、何か、もっと体の芯からほてってくるものがあった。

 「今、目の前のいる人に笑顔を」

 瀧永はこの言葉をインタビューの中、何度もくりかえした。大切にしている人生の指針、信条とも呼べるものだ。それが生まれた瞬間であった。

 「この時だね、俺のチャンネルが変わったのは」

 瀧永はそう表現した。

 「天命は他にあり」そんな思いが心の奥底でうずき、すすむべき道を求めはじめる。心のうちで何かが目覚めてくる。

 工場で働く数カ月間は、無我夢中の日々。一日も早い工場の再稼動を願い一所に命を懸けていた。が、復旧も一段落すると、大阪に戻り、またシステムエンジアとしての生活がはじまった。しんしんと雪が降り積もるように仕事に対する違和感を生み出していく。

 「もう、もとには戻れないよね。神戸の街みて、復旧作業通して、あの家族の姿みて、俺の価値観は変わっちゃってるんだもん。無理だよ。」

 しかし、電車にのってビルに吸い込まれ、吐き出される毎日が続く。

 (このままでいいのか?)

 悶々とした日々にあせりやいらだちが訪れる。そんな時であった、ある広告が瀧永の心をとらえる。

 「電車の中だったかな、どこかで拾ったのかな、もう覚えてないけど、就職情報誌があってね、偶然それをみたわけよ。そしたら、そこに載ってたんだ『くら寿司』の社長のメッセージ、信念みたいなものがね。」

 何かを感じた瀧永は、すぐに堺にある『くら寿司』を訪れる。1995年4月のこと。神戸にはない明るい雰囲気、笑顔があふれかえっていた。

 『くら寿司』とは関西を本拠とする回転寿司屋である。関東にも進出し急成長をとげている。正確には『無添くら寿司』。チェーン展開している飲食店で、有名なファミリーレストランなども含めて、扱う食材を日本で初めて無添加にした会社である。

 このお店の言う無添加とは、化学調味料、人工甘味料、合成着色料、人工保存料を一切使用していないということである。

 森永の事件にはじまり、BSEや鳥インフルエンザ問題など次々に起る事件が起きてきた。食に対する不安が広がり、消費者の意識に大きな変化がみられる。

 だが、添加物の問題は、法で許可されているが故に、また、それがなければ、スーパーの棚から半分は食品が消えると言われるほどで、なかなかなくすことのできないものである。

 特に「保存料」の問題。食品を保存するとは、それを腐らせないことである。腐らないとは、その原因となる細菌、微生物を抑制することである。そういった作用をする添加物は私たちは口にしている。人間の体の中も微生物だらけであるが、それは健康を保つために必要なものであり、それなくして生命を維持することはできない。保存料が人間のからだの中で何らかの作用をしているとしたら・・・。やはり多くの専門家が指摘している通り、真剣に考えていかなければならない問題である。

 米国は土葬である。土中の微生物が死者を分解し土にかえっていく。ところが、この自然のシステムがうまく働かなくなっている。

 なぜか。

 分解に一躍かう微生物の活動を体内に蓄積した保存料が抑制してしまっているからだ。それがため、土に戻るスピードが極端に落ちいつまでたっても人体が土の中にあると言う。

 現代人がいかに保存料に汚染されているのか、そのことを思い知らせてくれるうれしくない事実である。

 しかし、日本ではそのことは騒がれない。

 なぜならば、日本は火葬だから・・・。

 瀧永の事に戻す。

 『無添くら寿司』の広告に何が書いてあったのか、今となってはわからない。「人を大切にする」ことへの真剣なる想いが語られていたことは確かである。社長の信念が人生の舵をきらせる。

 寮でみた家族の姿、その時胸にあった感触、それを再び自分自身の手に取り戻すため、震災後感じつづけてきた違和感と訣別するため、辞職を決意する。

 震災は、1995年1月のこと。約一年半後の5月、M菱電機に辞職を願いでる。結局、会社を辞すまで、それから半年かかった。

 「無添くら寿司」へ。1996年11月のことであった。

  つづく・・・

(完全版は「天然素材蔵」店内にて読むことができます。)

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